第10回 初瀬街道 長谷寺 - 阿保宿  2003年4月21日

 ♪伊勢にいきたい伊勢路が見たい、せめて一生に一度でも♪
         
21世紀的伊勢参詣旅行記

 前回の上街道(上ツ道)に引き続いて、大坂・奈良から伊勢神宮
への参詣の道をたどる。

初瀬街道は長谷寺を起点としてこの日より3泊4日の行程で出発。
街道Walker初の連続長距離の道程であり、果たして行き倒れる
ことなくたどり着けるのか。

                〜  お伊勢参りと街道について 〜
 江戸時代から、庶民にも広く憧れの場所であり、慶長三年(1650)、宝永二年(1705)、明和八年
(1771)、文政十三年(1830)の”おかげ参り”は日本人の六人のうちの一人の割合で伊勢に殺到
するという大ブームであった。
しかも季節的には初春から初夏の時候に集中していたらしく、街道の混雑ぶりは相当なものであった
ろう。 そのようすは”伊勢参宮名所図会”にも、にぎやかな街道風景が描写されている。

 ”おかげ参り”は”抜け参り”とも言われるように、正規な届けを出さずに行くものであった。
 江戸時代は「入り鉄砲、出女」と教科書にあるように、基本的に人の動きを制約し、通行手形や関所
などでずいぶんと窮屈な世の中であった印象があったが、これを見ると、制度はともかく、現実的には
もっと自由な雰囲気の時代であったように思われる。
 十返舎一九の”東海道中膝栗毛”には、お伊勢参りをする人たちの、街道や宿場での様子が生き生
きとユーモラスなエピソードを添えて綴ってある。そういった往時の賑わいを知っておくと、道標や常夜
灯をよすがにして、ただの田舎道や住宅街にも当時の様子を想像できて、一層楽しく旅ができる。

 旅程は江戸からは片道で20日ほど、さらに京、大坂見物や香川県の金毘羅詣でまで足を伸ばす人
も多かった。 大坂からは中心部からでは、暗峠越えで奈良で一泊、奈良から長谷寺か榛原あたりで
二泊目、阿保宿で三泊目、六軒で四泊目、五日目の夕方にようやく伊勢に到着、翌日に参詣という片
道五日間の旅程であった。もっともこれは男性の場合で一日40−50kmくらいのペースであり、女性
は20kmくらいであったらしいので、さらに日数はかかる。

 旅行は現代でもお金がかかるものだが、当時の徒歩の旅でも食費、宿代と費用はかかる。
木賃宿は自炊するための薪代程度の金額で泊まるところで、宿の中では最も安い。
旅籠では、風呂もあれば、食事も出し、場合によっては飯盛り女の添い寝サービスまであった。
 農業がまだ経済の中心であった江戸時代には庶民の稼ぎも少なく、年収で3倍くらいの費用がかか
ったとする資料もある。
いま年収の3倍の費用とえば、豪華客船での長期の船旅くらいのものだが、江戸時代の日本と比較
すると、国力・経済力の伸張にはあらためて驚かされる。
 そんな高額な旅費であったので、全国の村々では「講」が組織された。 村の中でお金を出し合い、
順番、抽選で代表者を伊勢へ代参させるというものである。
そして、道中の旅籠には”@@講”と、各団体名が記された看板が店先に掲げられ、次の宿泊場所の
案内となっていた。 現代でも旅館の玄関に黒い板に宿泊者の名前が白く書いてあるが、あれはこの
名残ではないだろうか。
 電話のない当時にはどうやって講ごとの手配がなされていたかというと、御師(おんし)の存在が大きい。
 御師はもともと神職(権禰宜)であり布教者であったが、近世にはいり民衆の寺社詣でが盛んになる
と、伊勢参詣へのツアーコンダクターのような機能をもつようになる。
 参詣者の団体が宮川へ近づくと御師が正装して扇子をもって出迎え、駕籠に乗せたり、渡し舟を手配
したり、宿に着けば早速風呂にいれ、参詣用の正装まで出し、伊勢海老などの豪華な料理が出される。
こういった費用は御神饌料、神楽料、神馬料などという名目で支払われたが、伊勢神宮とは関係がなか
ったらしい。 これからみても、御師という仕組みは、最古の旅行業といわれる19世紀のイギリス・トーマス
クックに百年以上先んじている。

 さて、これだけ大規模な数の日本人が、信仰目的だけで伊勢参宮をしたのだろうか。 もしそうなら、
メッカ巡礼のイスラムの人々にも比肩するくらい信心深い民であったのだが、実は現代日本人を見ても
わかるように、もともと信心だけでひとつの神社に大挙押し寄せる国民性ではないようである。
 道中の物見遊山の楽しみもさることながら、外宮と内宮の間の丘陵地帯には古市という一大歓楽ゾーン
があった。
参詣まではなんとか身を持しても、その後は「精進落とし」と称して羽目をはずすのである。
『伊勢参り大神宮へもちょっとより』 なんて川柳さえあるくらいだから、多くの参詣者にとって、お伊勢参り
は宗教活動というより、楽しみのための旅行であったことが想像できる。

 今でも、サラリーマンが有給休暇を使って遊びに行くと周囲の働く人たちに気兼ねをするものだが、名目
が出張だと気遣いもない、というのはよくあることではないだろうか。
 当時の日本人も、周囲の目を気にするのは現代の比ではないだろうと想像できるが、これが「お参り」
という大義名分があると、俄然胸を張って出かけられるわけである。
 こういった部分も少なからずあったからこそ、徒歩、馬、駕籠しかなかった当時に、お伊勢参りが爆発的
な流行をもたらしたのだろう。

 このあたりの心情は、今も当時もさほど変わっておらず、そういう日本人の真面目なんだか、不真面目
なのかよくわからないところが人間臭くて、当時の街道を歩いていた人々をほほえましく身近に感じられ
るのである。




こうして、お伊勢参りの背景をおさえたうえで、出発にあたり草鞋と蓑笠というわけにも行かず、現代の旅人
の装備をチェックする。

まずは出発前の装備の紹介を・・・
装備のうちで、実際に使って役立ったもの)^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

  高機能 Tシャツ
綿50%、ポリエステル50%の湿度・温度調節機能のもの。福助のFilaが汗でべたつかず良かった。

  ステッキ
無段階に長さを調節できる。スプリングによりクッションあり。
ステッキを使うと、航続距離が20%伸びたとう情報もあったが、たしかにそういう気がする。
資料館などで、これを見て、「どこから歩いて来たんですか?」と話しかけてもらえるという利点もあり、
また、ホームレスと勘違いされないという効果もある。

  個別包装の梅干
筋肉痛は筋肉での乳酸の蓄積が原因であり、梅干に含まれるクエン酸はそれを防ぐ効果がある。
毎日5個ほど歩きながら食べたら、たしかに翌日の筋肉痛は以前と比べてずっとましであった。
後で考えるとクエン酸のサプリメントでも、CCレモンなどの飲料でも代用可能だと思う。

  ポカリスエット:
一気に飲まず、喉が少し渇いたら一口ずつ、時間をおいて飲むと効果的に水分を補給できる。

  ポータブルCD.MP3プレーヤー Panasonic SL-CT800 :
内蔵バッテリーで17時間、単2電池2個のパックをつけると67時間稼動。電源ONのまま初日に寝てし
まったが、バッテリーパックをつけて余裕の稼働時間を見せてくれた。
車両の交通量の多い国道を歩くときはもちろん、勢いをつけたいときにヤイコやアラニスを聞き、
夕方、へたりだしたころには、植木等で元気付けられた。 PCでMP3化してCD−R一枚に100曲以上
入れておけるので便利。本体は薄型でウエストバッグに余裕で収まる。

  足のマメ対策:
ウォーキング用テーピングテープ + シルク製五本指靴下 + 薄手の靴下(ナイロンと綿の混合)
この組み合わせでマメはまったくできなかった。

  薄型デジカメ カシオ Exilim M1
SDメモリカードには128MB、専用バッテリーの予備一個で、700枚以上撮影できた。
袈裟懸けに、地図を出し入れしやすい薄手のポシェットを提げ、そのポケットにネックストラップを首から
提げたExilimを入れて、気軽に撮影した。 本体の薄さと軽さも画期的だが、起動の早さと、シャッター
のタイムラグが短いというのが気軽に身に着けて使用できる。VGAサイズを主に使用し、ここぞというとこ
ろでは1280x960のXGAサイズで撮影。画質は前回の上ツ道からの写真がこれで撮影したもので、
それ以前の写真はソニーサイバーショットF55で撮った物。 比較してもそれほど遜色はないと思う。


   それでは出かけよう。
 長谷寺駅出発 (7:05)  <万歩計:0>
さて、前回は長谷寺までだったので、この日はここからスタート。
明け方に家を出て、電車を乗り継ぎ近鉄・長谷寺駅には7:05に
降り立った。
 天候はときどき霧雨が降ったものの、曇りの天気で、山あいには
霧がかかっている。
 駅前の道を下り、国道165号線の雨に濡れた歩道を進む。

 角柄 (8:00)

歩道に柵があり安心して歩ける。
緩やかな山の谷よりの道路。 南側の近鉄線の線路を電車が5分
おきくらいに頻繁に通る。
 
  榛原宿 (8:30)

西峠を8:10に過ぎ、上ノ町を8:20に通過し宋祐寺の先で近鉄線
の高架があるが間違って直進しないように。
国道は東へ直角に曲がる。


長峰  天満神社 (9:00)

国道から線路を渡ったところにあるが、まだ出発から2時間。
先を急ぐ。
ここから10分手前の道路標識には「名張18km、青山31km」
とあった。

道標   (9:18)
 「山べの赤人右江 八丁北」とある。 墓の所在らしい。

道標はもともと道沿いに立てられ、個人宅からは離れたところに建っているもの
だが、だからといってゴミ捨て場の目印にするのはいかがなものか。
この後も、こうした道標や常夜灯のそばにゴミの収集場所になっているところが
散見した。
 中国の奥地では、万里の長城が周辺住民の手で今も破壊されているらしい。
家の修理の材料に使うためだが、壊している人はそういう人類の歴史資産とい
う認識はないらしい。
長城とはくらぶべくもないが、道標、常夜灯といった街道の歴史的な遺産を大切
に後世に伝えていってもらいたいと切に願う。
榛原町山辺にある 葛神社  (9:22)

祭神は天照大神。がけ崩れで本殿が流され、ここに移設されたと説明書きがあった。

ここの境内で、おにぎり1個を食べ、10分ほど小休止。
ツナにぎりは魚くさくなるので、持ち運びには適さないことを発見。

  宇陀路緑川の休憩所  (9:50)
ここで休憩にすればよかったと思いつつ、また小休止。
小本指靴下の上ににウールの薄手のものを穿いていたが、靴の中ですべるようなので、ここでナイロン混のものに履き替える。
地図では室生湖の北北西にあたるが、国道からは見えない。
室生寺までここから6.7kmとある。
  室生口大野駅手前、国道165号線と線路が交差する場所
  (10:13)

 材木を積んだ10トン車の通行が多い。
 歩道があるので、まずは安全。
室生ダム北東の宇陀川
に架かる橋 (10:20)


 橋から見た下流の風景
蛇行して洲をぐるりと取り巻いて橋の向こう側をまた橋がまたいでいる。
 滝谷のあたり、川沿いの道  (10:32)

榛原町を過ぎてから、まだ誰ともすれ違っていない。
人家もないし、平日なのでハイカーもいない。
川沿いの道を歩いて行くと、向こうから人が歩いてきた。
街道Walkerとして昔の旅人の気分になって歩いていたので、その男性は、風景になじんでいたのだが、なにかがおかしい。
気づくと、半纏に、菅笠、荷物を風呂敷に入れ、肩に背負い、両手を首の前で風呂敷の端を持っている。
そう、大正時代以前の商人の恰好なのだ。
幻覚を見るにはまだ歩き始めなのだが、なんとも街道歩きにぴったりの人で、どうしてその恰好なのか聞いてみたかったのだが、タイミングを逸してしまい、「こんにちは」と挨拶しか交わせなかった。
振り返って写真を撮ったが、小さいので拡大してみた。
近所には人家も少なく、呉服屋の展示会があるような場所ではない。
いったいあの人は何をしてる人だったのだろう。
もし、コスチューム、装備からばっちり時代考証のもとにキメてる気合の入った街道Walkerなら、もう私の出る幕はない。それにしても気になる。
  常夜燈 二基  (11:00)

 右の常夜灯には 「日露記念」とある。
明治時代のものらしい。

三本松駅の手前800mほどの場所古い常夜燈があると、舗装
されたこの国道がかつての街道であったことを確認させてくれる。
  三本松駅の下30m
ほどの国道沿いに道の
駅・宇陀路室生があった。
  (11:14)
 レストラン、無料休憩所、手洗いがある。
 道路の反対側にはローソンもあった。
道の駅のみやげ物コーナーを見て、10分の小休止。
<万歩計:20,708>


 奈良と三重の県境を通過する近鉄の鉄橋  (11:30)

この先より三重県名張市に入る。
この鉄橋の先から歩道が狭くなり、車道も狭いうえに大型トラック
が多く危険な道が1kmほど続く。
「みえの歴史街道」 初瀬街道 (全35ページ)
 
(19)丈六〜(20)鹿高
----以下に三重県観光課の作成による初瀬街道の詳細地図をもとにリンクで、該当地図が
   別ウインドウで表示されるので、ぜひリンクを開いて同時に参照してください。--------------------

* 表題は該当ページの表題と同じものにしていますが、地図は三重県側から奈良側へ向けてのもの
   なので、数字は降順になります。
   また、写真に付けた番号は地図中の番号と同じものです。
(20) 鹿高-B   (県境〜名張市阿部田)

226)牛飼地蔵   (11:44)
元文5年(1740)

国道から2mほど上がったところにある。
そばに駐車できるスペースがあり、営業車がサボっていた。
その車のそばで撮影した。
225) 唐崖修路碑   (11:52)
明治14年
宇陀川へ岩が張り出した難所であったらしい。



(同所を道路側へ向かって撮影)

その難所も現在は何事もないかのように
側を国道が走る。
右手向こうに見えるのが阿清水橋。
223)阿清水橋
橋の向こうに伊賀忍者 百地三太夫の
屋敷があったという。
司馬遼太郎「最後の伊賀者」の中に「下請忍者」という下忍を
扱った短編がある。 百地屋敷を舞台に、忍者のさらに下請の
下忍の世界を描いている。

222) 石碑  (11:55)
慶応年間のもの
橋から30mほどで国道から山側へ分岐した道を上がる。
 (11:57)





(20)鹿高-A  (県境〜名張市阿部田)

219) 権現坂  (12:00)
向こうに見える車道は国道165号線。
街道は国道を渡り直進する。
216)庚申堂   (12:03)
元禄2年(1989)建立
上の写真中央、国道を横断してすぐの場所にある。


213)連子格子の家 (12:06)
街道沿いにはこの形の格子が多い。この後伊勢まで
の街道沿いもこの形の連子格子の家が古い家屋には
見られる。この街道の特長であり、六軒の資料館で聞
いた話では人通りの多い街道に面した家で打ち壊しに
会わないようにとのセキュリティのための造作であるら
しい。
川沿いの道を行く。
崖が川べりに膨らんだ
ところに石碑がある。

212)石碑
阿部田村義民碑など。
(19)丈六-C   (阿部田〜名張市結馬・赤目町相楽)

211)鹿高神社  (12:15)
壬申の乱の際、このあたりを通りかかった大海人皇子が、折から
の大水で宇陀川を渡れずに困っていると、どこからともなく白鹿が
現れ、皇子を乗せて川を渡ったという。
皇子は乱の後に、勅使をもって白鹿を祀る神社を建てた。
それが鹿高神社であり、このあたりの地名にもちなむという。
宇陀川の流れ。
高橋を渡って宇陀川南岸
へ渡る。
街道はここで線路寄りの
東側のルートと、ここまで
の道を橋を渡らずに直進
ルートに分かれる。
直進ルートは高橋から
約500mで国道165号線
と合流する。
国道は車の往来があるの
で、南側の農道のルートを
通った。

207)水神碑 (12:21)
橋の東詰。
慶応3年(1867)
(19) 丈六-B (阿部田〜名張市結馬)

198)勝運生地蔵 (12:21)
わらじを供えると足痛が治る云われる。

人も車もめったに通らないのどかな農道。
ちょっと勝運生地蔵さんの土手で小休止。

雲が広がっていて、時折強い風が吹く。
靴を脱ぎ、疲れた足を癒す。
ついでにおにぎり2個の昼飯とする。

食後のワンショット。
首の手ぬぐいが風景によ
くマッチしている。


お地蔵さんにお参りして、
15分ほどで後にする。
(19)丈六-A   (阿部田〜名張市結馬)

196)水神碑 (12:53)
丈六橋と東詰めの水神碑

安政6年(1859)の水害
で村は大被害を被った。
水神を鎮めるように建立。
195)常夜燈  (12:55)
二基街道沿いに並んでいる。
並び方から言って、間の道を左に行けば神社仏閣があるのだろう、
と思って地図を見ると、この先に八幡神社があった。

しばらく先を東に曲がると100mほどの位置に近鉄・赤目口駅があ
る。
道路わきの溝。
水はわりと綺麗であるところから、昔は階段を下りて溝で洗濯など
家事用水として使ったと思われる。
このあと街道沿いの街では青山峠をくだったところまでの間、こうし
た用水路のが目に付いた。
 今では水道の普及で洗濯している人は見かけず、家庭排水が流
れている場所もあるらしく、ところによっては水が汚れているのが残
念。清流を生かせば、特長ある町づくりの資源となりうると思うのだ
が・・。
このあたりの水は綺麗だった。
190)丈六寺  (12:58)
室生寺四門のひとつである北門の霊地と伝えられ
る。

石造五輪塔は俗に良弁僧正の供養塔と称されて
おり、正応2年(1289)と刻まれている鎌倉時代
のもの。
他に室町時代に河内国交野郷から寄贈されたと
いう釈迦涅槃図も所蔵されている。
189) 道標  (13:07)
「右はせむろう道」、「ひだりあかめだき」と刻まれている。
溝わきの民家の敷地内になっていて、鉄枠で囲まれている。
丈六橋からまっすぐ
の道
県道567号線
185) 光明寺  (13:15)


街道風景。

左下の写真には小学生の下校の様子が写っている。
(18)名張-C (結馬・赤目町相楽〜名張市東町)

宇陀川の東側の県道567号線を歩く。
晴れ間も見え、気持ちよい天気。
途中、”赤目中学校”を過ぎる。
椎名誠の小説に出てきそうな学校名。
赤目滝の名前の由来について調べねば。


178) 道標  (13:45)
「左あかめだき」 「是より六十丁」、「右はせならみち」
天保15年(1844)のもの。

新町橋を渡り名張市街へ入る。
(18)名張-B (結馬・赤目町相楽〜名張市東町)


173)酒造 旭金時
 (13:50)

橋を渡りはじめの道
を右へ曲がったところ。
古い建物の情緒のあ
る街道風景。
172)江戸川乱歩先生誕生の地
 の石標
 街道筋から路地裏の奥まったところに
ある。
名張の、豊かな川と山のある自然の風
景は季節の変化にも富んでいる。
その中で江戸川乱歩は少年期を過ごし
たのだろう。
(18)名張-A (結馬・赤目町相楽〜名張市東町)

165)酒屋 木屋正
  (14:02)
万歩計:32,771

杉玉に誘われ店内
に入る。
160) 道標  (14:09)
街道を曲がるところを間違えて直進したら、名張市市福祉センター前の道標に
でた。
「ひだりいせミち」 「右を(?)せみち」
158)一の鳥居
159)街道名残の一本松
(鳥居の後ろ)

上の道標の場所から戻り
北西に曲がり直進すると
鳥居が見えてきた。
鳥居の右側(北の方角)へ
街道は続く。
丸の内町北側の様子。
街道風景の名残が感じられる。
(17)倉持-A  (東町〜名張市蔵持町里・倉持町原出)

147)両社八幡宮  (14:27)

東町のあたりで街道は緩やかにカーブして
県道57号線に入る。
その前に八幡宮で道中の安全をお祈りした。

ここから200mほど、名張高校のひとつ北側
を通るころに右手に分岐した道がある。
街道地図では二手に分かれているが、左手
のルートは大きく迂回しているので、先を急ぐ
ために右側のルートを選んだ。
145) 常夜燈  (14:40)
明治8年建立
大神宮、常夜燈 と刻まれている。

県道から、さらに分岐した道は車もめったに通らず歩きやすい。
右手に近鉄線の線路が見え隠れしながら並行に進み、14:42に線をまたぐ。
通なりに住宅街を進む。

143) 常夜燈  (14:47)
明治29年
 15:00 街道は国道165号線と合流する。
桔梗が丘のニュータウン建設で当時の街道はここで消えており、
綺麗に区画整理された街の中を国道165号線の歩道を歩く。
細い道を出て、左手に進む。
(16)西原・三軒家  (倉持町里・倉持町原出〜名張市小波田)

桔梗が丘の新造成地
の間を抜ける国道165
号線を道なりに進む (15:10)

(15)新田  (西原町〜名張市新田)
線路北側の街道は七見峠で数百メートル消失しているので、この線路南側のルートを選択している。
よって、この地図は使用しない。
(14)七見峠  (名張市下小波田〜上野市比土)

国道165号線がカーブをする手前の道は左へ入り、すぐの道を
右へ入る。 写真は右へ入った道の様子。
”伊賀ゴルフコース”への標識を頼りに進む。  (15:31)

途中、溜池が3つある。車もあまり通らず、のどかな道。
(15:45) 上野市へ入る。
(16:00) <万歩計:43,967>
さすがに股関節が痛い。
ステッキが大活躍。持ってきて良かった。
上り道では特に前へ押す力を補助するので、有効。

さらに青山町へと入る。
(16:13) 小橋を渡り国道165号線と再び合流するが、200m
ほどで、街道はまた右へ入る。
(13)阿保宿-B  (羽根〜青山町別府)

左(114) 常夜燈と水神碑  (16:23)
国道165号線からまた街道へ入るとすぐ
の場所にある。
常夜燈や道標は現代の街道Walkerにとっ
ても目印になる。
もう、あまり歩けそうにもないので、道に迷
わないのがありがたい。

右(113) 常夜燈
112) 常夜燈  (16:26)
この常夜燈を目印にして、その前の橋を渡ると羽根の集落に入る。


国道165号線はこの街道筋から北を木津川沿いに走っており、
近鉄大阪線の線路がさらにその北側を通っている。



111) 安楽寺  (16:32)
110)常夜燈と地蔵群  (16:34)




109) 常夜燈  (16:36)
住宅街の、道がカーブするところにある。
108) 庚申碑  (16:38)

この先から阿保に入る。

参宮街道の宿場/名賀郡青山町 阿保宿 リンク
(13) 阿保宿-A (羽根〜青山町別府)

104) 常夜燈  (16:44)
安政7年(1860)

105) 延命地蔵  常夜燈の右隣

 阿保宿は上野街道と八知街道が分岐する交通の要衝。
上野・名張とともに藤堂藩から伊賀の地で三ヶ所だけ許された
商業の町として栄えた。
(16:52)
伊勢慶旅館
到着
5代前からの旅籠を営む伊勢慶旅館。
立地は街道に面しており、改装をしているものの、内部の間取りは創業当時を残す。

玄関を入ってあがり台からすぐに階段が2階に続き、そのまま正面の部屋へ案内される。
6畳間だが、窓がなく換気がわるいようで、湿布薬のような臭いが強くこもっている。コタツ布団は薄汚れており、テレビは映りが悪く、チャンネルも少ない。
更に今のところ、他に客もいない。もしかしたら、客は自分だけなのだろうか。
 私が幼稚園の通っていたころ、曾祖母も居た祖父の古い家でも同じような臭いと薄暗さがあった。
泊まってみたものの恐ろしくなり泣き止まず家に帰された記憶が、唐突によみがえり、「家に帰りたい」という緩やかなパニックに襲われた。
資料からイメージする江戸時代には、明るい部分もあれば、闇の部分もあることをすっかり忘れていた。
人々の夜は早く、しかも電気も無い時代に、明かりといえば薄暗い蝋燭か油しかない。
ホテルとも観光旅館とも勝手の違う旅籠は、どちらかというと民宿かペンションのような接客であり、宿の人は親切に接してくれる。
階段を降り、廊下を曲がると風呂場で、一人用くらいの大きさの浴槽に浸かり、帰るか残るかパニックの中に思案していた。
 風呂をあがりまた湿布薬のような古臭い臭いのこもる部屋の中で、ニュースを見ていたら、他のお客が
団体で入ってきた。まわりの部屋に人の気配がするようになると、すこしずつ落ち着いてきた。
19時過ぎに1階の食堂の奥の座敷でTVを前に夕食を頂く。
後ろでは工場の研修に来ているとう7,8人の団体さんが団欒しており、私の前にはふすまを開けて、
宿の幼稚園生の坊やが話しかけてくれる。
一人旅なので、女将さん、若女将もなにかと話かけてくれ、ビールの酔いも疲れに心地よく、さっきのパニックはいつの間にか薄れていった。
こうして、道中最大の危機を乗り越えた。
部屋にもどり、明日の行程の地図と、ルート確認をしながら
21時には就寝した。
<万歩計: 48,106 >  1,937Kcal  消費

本日の支出
長谷寺までの電車代
コンビニでおにぎり2個 ¥250
宿の支払い: 一泊二食 税込み + 夕食時の中瓶ビール1本   ¥7,455
* お伊勢詣りルート (初瀬街道・阿保宿から松阪、六軒へつづく


更新: 2021/5/25 リンク切れ修正