第35 回 紀伊路・中辺路  岩代(日高郡南部町)-稲葉根王子(西牟婁郡上富田町)   2004年11月29日


 10月31日から日帰りを継いで紀伊路を歩いた熊野詣も、
いよいよ田辺にさしかかるころからは、大阪からは特急を
使わずに往復6時間近くかかる。 このあたりからは泊まり
がけの旅となる。
 中辺路は鉄道路線がなく、バスの本数も少ないうえに宿泊
できる町も限られており、事前の計画を十分に練っておく必要
があった。
 バスツアーなどで行く中辺路は、本宮から徒歩2時間程度の
発心門王子から歩き始め本宮までというショートコースが多い
ようである。 ちょっと本格的になると、田辺市から富田川沿い
にバスで上り、瀧尻王子を昼前に発ち、近露で宿泊するコース
だろうか。
 (写真は千里王子がある千里浜。海亀が産卵に来る。)

 街道Walkerでは、連続した道としての街道を歩くのが趣旨なので、途中を端折ることなく熊野詣の道を歩く。
   (中辺路徒歩旅行計画)
 足が頼りの徒歩旅行なので、自分の歩行能力の見極めと、一日の歩行予定距離はもちろんルートの高低差を
考慮する。特に中辺路は滝尻以降、山々の峰を歩き、谷に下りまた上りというアップダウンに富んだコースであり、
途中の飲料、食料の調達ができる箇所はきわめて限定されている。
歩行計画では、まず宿泊施設がある場所を田辺市、近露、本宮近辺と3箇所に設定した。
目的は、中辺路の踏破だが、当然、熊野三山への参拝も第一目標である。そこで、逆算方式で、最終日を速玉
大社と那智大社への参拝とした。(第4日目)

(第3日目)は本宮町または、近辺の温泉へ宿泊するが、なんといっても、小栗判官蘇生の湯で知られる湯峰温
泉へ行き「つぼ湯」に入ることも目的に入れたいので、ここは湯峰温泉に決定。
ネットで検索して探した民宿「瀧よし」を予約。(結果的に、この宿は湯峰温泉でもっとも新しく設備も整っており、つぼ
湯も近くベストチョイスだったことが分かった。)
本宮から湯峰温泉はバスも本数は少ないが、大日越えで徒歩1時間くらいの距離でもあり、川湯温泉など他の温
泉場よりも本宮に近い。

 本宮以前の中辺路で宿泊できるのは野中、近露の2箇所だが、宿を朝7時過ぎに出立して午後3,4時
に本宮へ到着するとすれば歩行時間は8,9時間を確保できる。そこでより距離の長い近露に宿泊地を選んだ。
(結果的には、野中は宿も少なく山間の寂しいところで、川沿いに盆地の開けた近露の方が宿の選択肢も多く、しか
も民宿「ちかつゆ」は大当たりの宿だった。)


左:ちかつゆ
(中辺路町)

右:瀧よし
(湯峰温泉)







(第2日目)は近露へ午後5時までに到着できる場所から出立する必要がある。11月末から12月のこの時期、
日暮れは早く、午後5時には薄暗く歩くには向かない。また夕食付きの宿ではホテルと違い食事時間を気にしなけ
ればならず、せっかくのごちそうは湯に浸かってさっぱりしてから楽しみたい。
中辺路の一般的なコースの一つが熊野古道館のある滝尻王子−近露王子だが、これだと5時間くらいで歩いてし
まう。 紀伊路の残り行程も中途半端なことに岩代で止まっているのが、初日は田辺市のホテル泊なので、多少遅
くなっても宿の支障がないので初日をコースの調整区間とし稲葉根王子あたりからの出立とおおよその見当を付けた。

(第1日目) 稲葉根王子、一ノ瀬王子、鮎川王子、瀧尻王子の間は富田川に沿って右岸左岸に渡りつつ中辺路は
伸びており、国道311号線をバスが通っている。 (最終日−4)すなわち初日の出立は南部町の岩代からなので、
結構距離があるが平地でもあり、バスの時刻表を調べて、16,18,19時台に各1本ずつのバスで田辺に戻ることに
した。

予定歩行距離
1日目) 岩代−南部−田辺−稲葉根王子  32km 所要時間 7時間  宿泊:紀伊田辺シティプラザホテル
2日目) 稲葉根王子−瀧尻王子−近露   27km 所要時間 8時間50分 宿泊:民宿 ちかつゆ
3日目) 近露−継桜王子−熊野本宮大社 26km 所要時間 7時間55分  宿泊:民宿 瀧よし
      余裕があればさらに大日越えで湯峰温泉へ 3.4km 所要時間 1時間10分
4日目) 湯峰温泉をバスで新宮へ移動。新宮からは那智経由で、那智大社行きバス「大門坂」から徒歩。
      紀伊勝浦16:01発のスーパーくろしお30号で帰途へ。

体調
徒歩旅行開始の一週間前から風邪から副鼻腔炎を併発し寝込んでいた。水木と出社したが、さらに悪化し、金土と
会社を病欠し、日曜日まで寝込んでおり、このままでは来春までの延期もやむなし、という状態だった。
しかし、日曜には熱も下がり気分もよくなってきたので、小栗判官のにならいつぼ湯で蘇生すべし、万一道中倒れるとも
参詣道、これも街道Walkerとしては本望か。家族には、万一の際には行き倒れた場所にお地蔵さんのひとつも置いて
やってくれ、と言い残しての出立であった。
藤原定家も田辺で、風邪気味のときに無理に塩垢離をやらせられて、持病のぜんそくが悪化して苦しんだらしい。
平安時代の人でもがんばったのだから、抗生物質、消炎剤にユニクロのフリースベストを持った現代人が負ける訳が
ない。

天候
 和歌山南部の週間天気予報では、火曜日が曇りのち晴れ、他は晴れのち曇り、降水確率はいずれも10〜20%、
気温は連日、最低8度/最高17度前後だった。
朝、歩き始めは寒いので、フリースベスト、ウインドブレーカーを着用したが、30分ほど歩くと体が温まり、あとはシャツ
だけで十分だった。坂道を登るコースでは汗が出て腕まくり、汗止めの鉢巻きが必要なほどだった。
結果的に、これくらいの気温が最適ではないだろうか。

資料編
いつものようにプロアトラスW3で該当区域を2万分の一くらいの縮尺でブロックごとに印刷して持参したが、国道をほと
んど歩かないので役に立たなかった。
必須資料は、コレ!

高野巡り・熊野古道 街道マップ


 この12番から24番までの地図を使った。
PDFファイルで印刷するにも便利なのだが、
A4用紙を使うと、どうしても 文字が小さい。
そこで和歌山県観光課へ入手できる場所を
伺ったのだが、親切なことに同内容の小冊子
一式(全8冊)を郵送いただいた。(左写真)
 海南市の藤白神社宮司の吉田昌生さんが
すべてのコースの監修にあたっておられるが、
向陽書房「熊野古道ガイドブック 熊野への道」
の著者でもある。 そして藤白神社でお守りや
護符を授けられるときに、申し出ると全小冊子が頂ける。
 世界遺産として脚光を浴び道標も整備された熊野古道だが、紀伊路では自治体によって道標の形や大きさが異なり
密柑山、峠道では何度か道に迷った。 それでもこの小冊子がなければ今回の徒歩旅行は難しかったことだろう。
藤白神社宮司の吉田昌生さんには感謝いたします。

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 〜 紀伊路 〜

8.切目駅〜南部駅
(歩行距離:12.1km、 標準歩行時間:3時間20分)

 JR天王寺を6:47に出て、和歌山県日高郡南部町、JRきのくに
線岩代駅に9:20に到着。
月曜日と、平日のため早朝発の電車にもかかわらず通勤、通学
で混雑していたが、さすがに湯浅を過ぎるころから乗客もまばらに。
 岩代王子は駅を出て左に向かい踏切を越えて海へ向かうと4,5分
で着く。
いきなり紀伊水道の水平線が朝の光をあびて眩しい。
すがすがしい空気を吸って、岩代王子へ参拝する。















<説明版より>−−−−−−−−−−−−−
岩代王子

 熊野に向かう参詣道は、岩代王子から千里の浜に出ます。天仁二年
(1109)、熊野に参詣した藤原宗忠は、十月二十一日に「石代(いわし
ろ)王子」に奉幣し、その約百年後の建仁元年(1201)、後鳥羽上皇の
参詣に随行した藤原定家も、十月十二日に「磐代(いわしろ)王子」に参
拝しています。上皇や女院の御幸の時に、この王子社と那智浜の宮では、
拝殿の板を削って、供奉人の名前と参詣の回数を連署し、打ち付ける習
わしがありました。この習わしの様子は、定家の日記のほか、藤原頼資の
承元四年(1210)、健保五年(1217)の記されています。また、『新古今
和歌集』には、この習わしを真似て拝殿の長押(なげし)に書き付けた
「いはしろの神はしるらん しるべせよ たのむ憂き世の夢の行くすゑ」という歌が載せられています。時代は降りますが、
応永三十四年(1427)、熊野に参詣した足利義満の側室・北野殿は、九月二十五に岩代王子の前で海に潜っていた
「海士(あま)」に絹布などを与えています。明治時代には王子神社となり、後に八幡神社(現、西岩代八幡神社)に合祀
されましたが、旧地には社殿は再建されました。
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 岩代駅へ戻り汐入橋を渡り、集落の集会所を右折して集落内で左折。マップ中の拡大図に「杉の木の間に祠がある」
と記された場所の写真(写真:上左)。 そこから登りになり梅林を進む。














2つめの丘を越えて降ると、別荘や夏期のセミナーハウスがひっそりとたたずむ。
ぬかるんだ道を進むとJR線の高架下に出る。(写真:上右)
高架のトンネルをくぐるといきなり視界が開け、水平線どどーんと広がる。
左手の丘がどうやら千里王子らしい。マップには「200mくらい千里の浜の砂浜を歩く」とある。
ここには見晴らしポイントであり、朝日夕陽100選の記号が付いているが、まさしくその通り。
海亀も産卵に来るらしい。 開放的な実に気分のいい場所だった。夏場なら海パンになって、塩垢離
するのはまちがいないポイントである。


千里浜













千里王子
(10:16)











<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−
千里王子

 千里の浜は、『枕草子』に「千里の浜、ひろうおもひやらる」
とかかれているほか、『伊勢物語』『大鏡』『保元物語』など、
多くの文学作品に登場する景勝地です。『大鏡』には、花山
法皇が熊野参詣の途中、千里の浜で病気になり、海岸の石
を枕にしてお休みになった、という逸話を載せています。確か
な記録では、天仁二年(1109)十月二十一日、藤原宗忠が
昼食のついでに、海水を浴びて塩垢離をしています。千里王
子の初見は、藤原定家が後鳥羽上皇の参詣に随行したとき
の日記で、建仁元年(1201)十月十二日に参拝しています。なお、定家は、その後、近露(現・・中辺路町
)で行われた歌会で、「くもきゆる ちさとのはまの月影は そらにしぐれて ふらぬしらゆき」という、千里の
浜にちなんだ歌を詠んでいます。また、承元四年(1210)、修明門院の参詣の随行した藤原頼資も、四月
二十七日に千里王子に参拝しています。この王子社は、室町時代には「貝の王子」とも呼ばれたようで、応
永三十四年(1427)、アシカか義満の側室・北野殿の参詣の際には、浜辺で拾った貝を、王子社に奉納し
ています。江戸時代には、紀州藩主徳川頼宣が寛文四年(1664)に拝殿を建立して復興に尽くしました。
明治時代には、千里王子神社となり、その後、須賀神社(南部川村)に合祀されましたが、安永五年(1776)
建立の本殿は残されました。この社殿は、建築年代の確かな王子社として貴重です。
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 千里観音の参道に並ぶ地蔵。 左手にはシャワー室が
あり、夏場は海水浴もできる。
千里王子は参道入り口の右手にあたる。

境内で地元の工務店の人に挨拶したら、話をしてくれた。
熊野古道は境内を通る道ではなく、千里王子社を海と反対
側に回り込むように通る道であり、今はかろうじて通れるよ
うになっている、ということだった。
そしてマップの拡大図にはないが、千里観音を出てJR線の
手前の小川にかかるコンクリートの小橋を渡らずにその手前
で右に行くように、とアドバイスしてもらった。
たしかに道なりに歩くと見過ごして、線路を越えてしまいそうな
道だった。 10人中7人くらい間違う、ということだった。


写真:左
コンクリートの小橋
渡らずに手前の道を
右折する。

写真:右
右折してすぐの様子。
たしかにわかりにくい。
道標は進行方向と逆側
のしかも地面から10cm
くらいのところにある。
写真右下の隅にあるのが
わかるだろうか。

 マップに「梅畑の中を登る」と記されたあたりの様子。













 南部峠の石仏
 (10:46)
正面につきあたり、石仏を右へ直角に曲がる。



(写真左下)
峠からの下り道
梅林の向こうに海が見える。






紀州梅干し館
(11:07)











北茶屋橋を渡った南部町の街道風景。
この通りは古い家屋がよく保存されている。












 丹川地蔵とイチョウの木








 (写真下
南部王子
(11:20)
万歩計:9、072歩















































 <説明版より>−−−−−−−−−−−−
三鍋王子
この王子社は、『中右記』天仁二年(1109)十月二十一日条に、「南陪山を越え、王子社に奉幣」と書
かれているのが初見です。『中右記』は藤原宗忠の日記です。藤原定家は、建仁元年(1201)十月に、
藤原頼資(よりすけ)は、承元四年(1210)に熊野に参詣し、いずれも三鍋王子に参拝しています。頼資
はこの年、二回熊野に参詣しました。一回目は、修明門院に随行し、二回目は個人的に参詣したのです。
この二回目の時、三鍋王子で奉幣の儀式の際に、まどろみ、夢の中に熊野権現が現れたと、日記に記し
ています。近世には、王子権現社と呼ばれ、南部三社の一つとして、村民により立派な社殿が建立されま
したが、明治時代の神社合祀で、現在の鹿島神社に合祀された際、本殿もこの鹿島神社に移され跡地に
は小祠が建立されています。
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9.南部駅〜紀伊田辺駅
 (歩行距離:9.4km、 標準歩行時間:2時間30分)


鹿島神社
(11:38)











 南茶屋橋から鹿島を望む。
たしかに鍋を3つ伏せたように見える。
そこから三鍋となり、後に南部(みなべ)という地名に
なった。










 国道42号線(右)と接する場所。紀伊路は左側の道
を進む。
写真には写っていないが、ベイホテル朝日楼が国道の
右側にある。
マップの拡大図では、南茶屋橋からすぐの食糧倉庫手前
の登坂を勘違いして右折してしまった。








「国民宿舎紀州路みなべ」が岬に見える。
鹿島を前に海の広さを満喫できそうな立地で、
泊まってみたい宿。


国道42号線の一段上の道を進む。
磯の風景がよい。
途中、「ようこそ田辺市へ」の弁慶像がある。
本来の紀伊路は国道の方だと思うが、海岸線は波の
浸食で浜の地形が変わるし、護岸工事で形状も変わって
いる。歩道は白線で区切られただけなので、一段上のこの
道の方が交通量がたいへん少なく、安心して歩ける。
















トンネルと通るのは街道Walkerとしては、ちょっと抵抗があるが、
なにせ通しの歩き旅、今回は往時の道へと迂回せずに素直に
トンネルを通る。
トンネルは新しく、距離も短いうえ、車がほとんど通らないので
まったく問題ない。

抜けるとすぐに右側に井原観音がある。
海辺の陽光も眩しい。






 芳養王子
(12:42)
境内で昼食の
おにぎりを食べ、
13:02に出発








<説明版>−−−−−−−−−−−−−−−−
芳養王子社趾

 熊野三山参詣街道に祭祀された九十九王子社の一社、當芳養王子社は建仁元年(1201)十月十二日、後鳥羽
上皇が熊野参詣の途次、当社に奉幣の使いを派遣したこと「御幸記」に見え由緒は古い。爾後、下芳養の産土神と
して倒置法の敬信を永く集めていたことも紀伊続風土記に記されている。
明治四年の神社合祀により現在の大神社として合祀され今日に至っている。田辺市内の五王子社の一つとして有名
な遺跡である。
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 田辺芳養郵便局
ここでも「街道沿いには郵便局がある」という法則が当てはまる。
郵政民営化が論議されているが、経済効率一辺倒で、こうした現代
の道標が無くなっていくのは忍びない。

直進するとまもなく国道42号線と合流する。








 牛の鼻
(13:14)

国道沿いにある。
この先のローソンから300mほどの次のコンビニまでの
間には弁当屋、モスバーガー、食堂などが並んでおり、
ここのあたりで昼食を調達したり、食堂に入るのも
よいかもしれない。






写真:左
天神崎の根本の
浜の様子。往時の
風景にはこちらが
近いかも。

写真:右
今は埋め立てられ
児童公園の一角に
建つ潮垢離浜の
記念碑
(13:41)

<説明版> −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
潮垢離浜跡

 かつてこの付近一帯が出立浜と呼ばれ、ここは熊野に参詣する人びとが潮垢離をとった浜として知られています。
潮垢離とは、浜で海水を浴び、けがれをはらう儀式のことです。
 これまで海辺をたどってきた熊野への道は、ここから中辺路と呼ばれる山中のルートに入るため、この浜での潮垢
離は重要なものとされました。建仁元年(1201)後鳥羽上皇の熊野参詣に随行した歌人藤原定家は、前日から体の
調子がよくなかったにもかかわらず、先達の強い指示で潮垢離をとったと記録しており、この浜での潮垢離の重要さ
がうかがわれます。
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 出立(でたち)王子
(13:50)
県道210号線の歩道に細長い道標があり、細い道を50mほど
登ったところにある。

<説明版>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
出立王子跡
出立王子は熊野九十九王子社のひとつで、田辺王子とも呼ばれ
ていました。古くから熊野詣の人びとの信仰を集め、例えば藤原
信忠の日記『中右記(ちゅうゆうき)』には、天仁二年(1109)の
熊野詣の途中、宗忠一行がここへ参拝したことが記されています。
熊野参詣の道はこれより中辺路と呼ばれる山沿いのコースをた
どり本宮へと向かいます。
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古道は出立王子の坂道を上がっていくが、先を急ぐので、もとの
県道にもどりマップ上オレンジ色の線に従った川沿いのコースを
とる。
マップ上には竜泉寺とある寺。
会津橋の手前を上流へ向かう道にも門があり、そこには
浄土宗浄恩寺とあった。

田辺市、会津川を上流方向へ上っていく。
このマップはここまで。
この先からは、いよいよ中辺路マップへと交代する。





街道マップ 熊野古道 中辺路

1.紀伊田辺駅〜稲葉根王子
 (歩行距離:12.1km、 標準歩行時間:3時間15分)

 高山寺
(14:07)

先を急ぐので、
門から参拝。









 弁慶のさと湯
お風呂屋さんを発見。紀伊田辺を終点とするコースを取った
場合、ここまで足を伸ばして風呂に入るのもいいだろう。
高山寺と秋津橋の間にある。










 秋津王子
(14:26)
<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−
秋津(あきづ)王子安井宮跡
秋津王子の創祀時期は不明であるが、藤原定家の『後鳥羽院熊野御幸記』
建仁元年(1201)十月十三日条に、「前夜田辺に宿泊、早朝出立してまず
秋津王子に参る」とある。しかし、藤原宗忠の『中右記』天仁二年(1109)
十月の熊野詣での記事にはみえないので、この間に祀られたものと考えら
れている。
 この付近一帯は、左右会津川(三栖川・秋津川)に挟まれた氾濫原の低地
で、長い歳月の間の水没や水害などにより、現在では秋津王子の旧地や古
道をたどることは難しい。
 秋津王子は、江戸時代になってからも、柳原から落ち合い、さらに安井とい
う地へ移されたと考えられている。
 この碑には、秋津王子が祀られていたといわれる安井宮が明治三年に雲の
森神社(現在の豊秋津神社)に合祀されたことが記されている。
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 須佐神社
(14:43)着
参拝
(14:48)出発










 万呂王子
(15:06)

 <説明版>−−−−−−−−−−−−−−−−
万呂王子跡

 万呂王子は、藤原宗忠の『中右記』天仁二年(1109)の条にその名
がみえず、藤原定家の『後鳥羽院熊野御幸記』建仁元年(1201)十月
十三日の条には「秋津王子を過ぎて、次に山を越え丸王子に参る」とあ
り、この間に祀られたと考えられているが、秋津王子からの古道は定か
ではない。
 万呂王子の旧地については、寛政四年(1792)『田辺領神社書上帳』
に「御神体石」、「社僧社人無御座、無宮之神主一人御座候」などの記述
がある。 明治十年(1877)に、下万呂の須佐神社(旧名 牛頭天王社)に合祀される前は、この付近に小さな森があり、
王子の面影が残っていたといわれている。
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 三栖(みす)王子
 (15:26)











<説明版>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
三栖王子

 三栖の地名は藤原為房の日記、『大御記』に見えます。為房は永保元年(1081)十月に熊野に参詣した際、
三栖荘で宿泊しています。王子の名は藤原定家の日記、『熊野道之間愚記』に「ミス山王子」と書かれているの
が初見です。承元四年(1210)四月の「修明門院熊野御幸記」でもミス王子に参拝したことが記されており、
承久二年(1220)十一月に熊野参詣をした藤原頼資の日記にもこの王子の名が見られます。室町時代頃に
は、すでに、ミスから塩見坂(潮見峠)越えの道が開かれていましたが、応永三十四年(1427)九月に熊野参
詣をした足利義満の側室・北野殿は、旧来の参詣路を経由しています。その後、退転し、江戸時代に再興され
て「影見王子」と呼ばれたようです。明治初年に八坂神社の摂社となり、同四十一年に一倉神社(現、珠簾(た
まだれ)神社)境内に移転しました。
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<顕彰碑の説明>−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 三栖王子は熊野九十九王子の一で藤原定家の御幸記
に三栖山王子とあり、他の参詣記には三栖王子と記され
ている。鎌倉期末から参詣路が潮見峠越えに変わりはじ
めたため本道から離され、戦や災害でしだいにさびれてい
ったが元禄の頃、村人達により再建され影見王子ともよば
れるようになった。その後、慶応四年の大雨で社地が崩れ
たので、明治元年八坂神社の境内に遷宮、後明治末年の
法令で珠簾神社に合祀された。かねてから当社跡の復興を
願っていた三栖地区民がここに碑を建てこれを永く顕彰する。
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 三栖王子から坂を下るとまもなくアスファルト道路に出る。
コースは写真左で、坂を下りきったあと、アスファルト道路をU
ターンする形でまた下っていくのだが、ここで道なりに直進して
しまった。アルプスマップの印刷した地図でも現在位置が把握
できず、自動車修理場で道を尋ねたら、親切に教えていただいた。
この間違いで30分間時間を無駄にしてしまった。
マップでの三栖王子から八上王子までの区間は道路が省略
されており、アルプスマップW3の情報とも道が符合しておらず、
十分注意してもらいたい。





ここで、Uターンでアスファルト道路を下るのがコースですから。
新岡坂トンネルの上を通る旧道もあるが、マップでは「道が荒れ
ている」とあり、紀伊路では峠で道を間違える確率が七割を越え
ているし、なにせ先を急ぐ旅でもある。
そこで、新岡坂トンネルを越える。
トンネルを通る際のポイントは、歩道の確保があるか、交通量は
どうか、おばけが出そうか、の三点である。
このトンネルは「新」がついているだけあって、段違いの歩道も
あり、交通量も少なく問題なかった。

 トンネルと抜けるとまもなく八上王子。
そのすぐ手前に無人販売所があり、ここでミカン¥100を購入。



八上王子
(16:26)











<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−−
八上王子

 天仁二年(1109)、に熊野参詣をした藤原宗忠は、十月二十二日、田之陪(た
のべ)(田辺市)王子に奉幣後、萩生山口で昼食をとり、山を越えて新王子社に
参拝しています。この新王子社は地理的に見て、八上王子社だと推定されます。
西行が熊野参詣の途中に立ち寄り、「待ちきつる八上の桜さきにけり 荒くおろす
な三栖の山風」という歌を詠み、社殿に書き付けたことで知られる王子社です。
西行と同じく、歌人として著名な藤原定家も、建仁元年(1201)十月十三日、後鳥
羽上皇の参詣に随行して「カヤミ王子」に参拝しました。藤原頼資は承元四年
(1210)四月二十八日、大風雨の中、修明門院の参詣に随行して、この王子社に
参拝しており、王子社名を「八神」と書いています。江戸時代には八上王子社といわ
れ、拝殿と経堂が設けられていました。明治時代に八神神社となり、現在に至って
います。十一月二十三日の例祭で奉納される獅子舞は、県指定の無形民俗文化財
です。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−



田中神社
(16:40)












 稲葉根トンネル
マップにはトンネル越えの旧道は「道が荒れているので充分注意」
するように書いてある。すでに日没を間近に控え、稲葉根王子への
道を急ぐので、トンネルを抜けるルートにした。










西牟婁郡上富田町

稲葉根王子
(17:01)

やっと本日の目標地点に到着。日没はあとわずか。
境内は木々で暗く、写真に写らなかった。






<説明版より>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
稲葉根王子
 藤原宗忠の日記『中右記』の天仁二年(1109)十月二十二日条に、「稲葉根王子社に参り奉幣」とあるのが、
この王子の初見です。建仁元年(1201)、後鳥羽上皇の熊野参詣に随行した藤原定家は、十月十三日に稲葉
根王子に参拝していますが、この王子では、五躰王子に準じて、儀式が諸事華やかであったと日記に書いてい
ます。
承元四年(1201)四月二十八日修明門院が参詣した際には、この王子を五躰王子としています。室町時代にも
五躰王子として存続し、足利義満の側室・北野殿が参拝した折りには、神楽が奉納されています。近世には、「岩
田王子」ともいわれ、村の産土神として祀られていました。拝殿が設けられ、末社に稲荷社を付帯していましたが、
大正四年(1915)に岩田神社に合祀されました。現在の社は昭和三十一年(1956)に遷社したものです。
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稲葉根王子の前の県道35号線を横断すると、富田川が流れ
ている。
道路に面した駐車場を過ぎると、水垢離場がしつらえてある。
写真は下流方向を望んだもの。夕焼けが川面に映えている。

県道に戻るとバス停があり、夕方の時間帯の紀伊田辺行きは、
16:39、18:07、18:53 である。

次のバスは18:07で、あと一時間弱残っている。
その道から山の方角へ程なく国道311号線と合流する場所に
比較的大きなスーパーがあり、日用品なども置いてある模様。
そこで時間をつぶすことも可能だが、明日の歩行距離をかせい
でおくことにした。

次の王子社は一ノ瀬王子だが、これは富田川を右岸に渡る。バスが通る国道311号線は左岸を走っており、
途中でバス停に行くことはできず、手前の市ノ瀬橋か、上流の加茂橋に出なければならず、距離からして時間
はぎりぎりだった。
そこで、市ノ瀬橋のバス停まで歩き、翌日はそこから歩き始めることにして、日の暮れた側道を歩いた。
市ノ瀬バス亭に、17:30到着。 ここから18:04発のバスを待つことにした。
さすがに日も暮れると寒くなり、フリースベスト、ウインドブレーカーを着る。
待っていると、向側のバス停のおばちゃんが、「どこまで行くの」と聞いてくれた。てっきり車に乗せてくれるのかと
思ったら、「朝来(あっそ)行きならもうすぐくるんやが」ということだった。いずれにしても親切だ。「どうも」と挨拶を
してバス停の椅子に座り込む。
後で考えたら、稲葉根王子まで戻ってスーパーで時間をつぶせばよかった。

18:04のJRバスに乗って、田辺市へ。途中、事故渋滞で遅れたが、ホテルへは連絡していた19時には間に合った。
本日の宿は、紀伊田辺シティプラザホテル あらかじめネットで予約してあり、食事無しのシングルで¥6,300。
このホテルの特長はなんといっても22時まで営業のショッピングセンター
が1〜3階にあることだ。 食料品から文具、衣類までそろう。一階にはミスタードーナッツまである。
ここで、翌日の朝食・昼食としてドーナッツ、サンドイッチ、おにぎりを買う。(¥627)

夕食はホテルの
レストランでビジネス
ステーキディナー
写真の内容と唐揚げ
などのおつまみ付き、
ビール付きで
¥1,800

ホテルは5〜7階になる。
ビールは7階の自販機
でも買える。



一つだけ不満だった点はビル全体の空調機が窓の外の下のフロアにあって、それが低音の振動音が気になって
なかなか寝付けなかった。 耳栓を持参すべきだった。
また、初日はいつもの五本指靴下でなく、厚手の靴下に余っていた運動用テーピングテープを足指や甲に巻いてい
たのだが、右足の甲の部分でマメが潰れていた。 左足の親指の爪の根本からは出血しているし、原因は靴下と
トレッキングシューズ内部の通気性が悪く湿っていたことだろう。 せっかくのアシックスのトレッキングシューズ
だが、やはりもうワンランク高価なゴアテックスを使ったものにすればよかった。
また、バンドエイドの持ち合わせは最終日までぎりぎりだったので、途中のコンビニで買うつもりだったが、結果的に
この後のコースには最後までコンビニが無かった。徒歩旅行の時には、耳栓とバンドエイドを10枚以上持参すると
いうのが本日の教訓。

本日の歩行距離
今回からOMRONの万歩計WalkingStyle HJ−113 を使用。
これは二軸センサーで感知するものの、任意にリセットできないので、着けている間中計測する。
9:20に岩代から歩き始め、一ノ瀬橋バス亭に17:30到着。ここでいつもの万歩計をストップ。
OMRONの万歩計はこの後、ホテル、ショッピングセンター散策までカウントしているが、30分程度である。
     歩行距離:36.71km  45,898歩/28,542歩 しっかり歩行
     消費カロリー 1,558Kcal   脂肪消費量 96.5g

いつもの万歩計では、岩代でリセットをかけ、一ノ瀬バス停でカウントを停止させた。
     37,661歩 / 1,545.4Kcal だった。


翌日は稲葉根王子の先、一ノ瀬王子から歩き、いよいよ人里を離れ山中に入っていく。

   つづく


更新: 2021/5/24 リンク切れ修正